私のITヒストリー
1970年ごろ
電子計算機との出会い
住んでいた家の近くに「大阪市立電気科学館」というのがありまして、日本で最初のプラネタリウムなどがあったところです。
そこに、FORTRANという言語で動く「電子計算機」がありまして、来館する子どもが自由に触れるようになっていました。
この電子計算機というのは、マークシートみたいなカードにプログラムを書きまして、それを計算機に読み込ませます。
このカード一枚が、プログラムの一行にあたるわけです。
なにしろこういう感じのパンチカードですから、打ち間違いをしてしまったら、このカード一枚がパァになるわけです。
なので、猛烈な集中力を要したものでした。
そしてプログラムを実行すると計算結果が紙テープに印字される、という仕組みのものでした。
当時小学生だった私には、これがとても楽しかった。家で自分のノートに、10行程度の簡単なプログラムを書き、それを次の日に電気科学館に持って行って計算機に読み込ませ、実行させる・・というのを毎日繰り返しやっていたものです。
ラジオ製作との出会い
同じ時期に、「トランジスタラジオ」を作るのが小学生のあいだでブームになっていました。
大阪には「日本橋」という電気街があり−まさに東京の「秋葉原」のような場所です−そこでトランジスタや抵抗、コンデンサ、トランス、バリコンなどの部品を買ってきまして、電気回路図をみながら、はんだごてで部品をつないで、ラジオを作るのです。
短波放送との出会い
ラジオを製作していると、当然のことながら「ラジオを聴く」という趣味にも没頭するようになります。
AMラジオの深夜放送ーオールナイトニッポン、走れ歌謡曲、ヤングタウン、ヤングリクエスト、などなどの人気深夜放送をかたっぱしから聴いていました。
深夜放送に慣れ親しむことで、音楽を聴くという趣味が生まれることになります。この趣味が大きく成長するわけですね。
私の場合は、AMの深夜放送だけでなく、外国の短波放送も聴くのが趣味になっていきました。
ちょうど、当時の小・中学生の間で大ブームになってたこともあり、さらにソニーや松下電器などから、短波放送専用のラジオがどんどん発表されていました。しかも、どれもメチャクチャかっこよく、しかも高性能だったのです。
短波放送は、その性質上、日中は電波が届きにくいので、リスニングするのは必然的に夜間・深夜になります。
私は主にアメリカのVOA(ボイス・オブ・アメリカ)やイギリスのBBC、ラジオオーストラリアなど、有名どころを聴いていました。
外国のラジオ放送を聴いたら、その放送局に「受信レポート」を書いて送るのです。
受信した日時、電波の状態、音質の状態。それと番組に感想などを、たしか当時は手紙で書いて送っていたと思います。
相手は日本向けの日本語放送なので、そうした手紙は日本語で書いてもよかったのですが、僕は英語で書いていました。
この、外国の人とコミュニケーションする必要性が、私にとっては、「自分の趣味を完結させるための必要性」であったので、自然に自分で英語を勉強していました。
おかげで、小学6年生のあいだに、中学3年生までで習う英語は、全部独学で完了していました。
たま〜に成層圏の電離層の状態がよいときは、ブラジルなどから日本向けの放送が聞こえます。それをキャッチできたときは、とてもうれしかったものです。
受信レポートを書いて送ると、数ヶ月後(!)に、その放送局から国際郵便で、こうした「ベリカード」が届きます。これがうれしかったのです。
当時の小学生なら誰でも、「切手を集める」みたいな”コレクションの趣味”を、なにかしらやっていたものです。僕の場合はこの「ベリカード集め」が趣味でした。
この、ラジオ製作の楽しみと出会ったことで、電気工学・電子工学の面白さにすごく目覚めました。
「将来は電子工学の博士(はかせ)になる!」と、おぼろげに進路を決めていたものでした。
大学受験時代
私が通っていたのは大阪府立豊中高校という高校で、「生徒は全員阪大に行くものと決まっている」高校でした。
私は「阪大医学部に行ってブラックジャックみたいな医者になる!」か、「阪大工学部に行って電子工学の博士になる!」と決めていたものです。
(阪大医学部といえば手塚治虫先生の出身校ですので)
私が受験生のときは、センター試験(当時は共通一次試験と呼んでいた)の第1回目の時代でした。(それ以前は”国立一期・国立二期”と呼ばれていました。
この”共通一次試験”を通って阪大に受かるためには、英語・数学・物理・化学がしっかりできていないとハナから通れないものだったのですが・・・
私、化学だけがどうしても苦手でした。。。
なので、阪大の理系に行くのをあきらめざるを得ませんでした。
なので、「阪大工学部に行って電子工学の博士になる!ブラックジャックみたいな医者になる!」という道をあきらめました。
しかし、医者になる方法、医者みたいな人になる進路、というのを模索していた結果、「心理学なら医学に近いんじゃないか?しかも文系で、化学は受験しなくていいし!」というわけで、心理学の道に進むことを決めました。
で、ちょうど阪大には「人間科学部」という、心理学・社会学・教育学をハイブリッドしたような学部がちょうど新設されたので、そこを目指すことにしたものです。
ちなみに阪大は、工学部も人間科学部も、自宅から自転車で行ける距離にある「地元の学校」だったので、わりと単純に進路を決めた、という理由もあります。
で、せっせとがんばって受験勉強にいそしんだのですが、偏差値的に阪大に入るにはどうしても一歩届かず・・・親からは「浪人なんかぜったいダメだ。現役で受かれ!」と言われていたので、ワンランク下げて大阪市立大学に現役で入学することにしました。(大阪市立大学にも、ちょうどその当時、人間科学部のような学部が新設されたところだったのです)
こうして、「電子工学の博士になる!」というのは”かなわぬ夢だったのだ”ということにして、電子工学については「趣味」で抑えとこう、ということに、自分なりにピリオドを打つことにしました。
実際、心理学を研究することにもすごく興味が芽生えていたので。
アップルⅡとの出会い
正確な時期の記憶が定かではないのですが、たしか1976年ごろに登場したのが、アップルのアップルⅡでした。
大阪の日本橋−東京でいえば秋葉原みたいな電気街−に、上新電機というお店があり、ここにアップルⅡが展示されていました。当時の価格で70万ぐらいだっただろうか。
70万といえば、クルマが1台買えるぐらいの価格だったと思います。
この上新電機で、これまたこのアップルⅡが自由に触れるように展示してあったものでして。
なので私は、家で必死にプログラムのコードをノートに書き、お店に行って打ち込み、そして実行させて遊ぶ・・ということをして遊んでいました。
この当時、アップルⅡでスタートレックのゲームをプログラミングして実行させて遊ぶ」というのが流行っていました、
なので僕も、自我流というか独学というか、自分で想像しながら「スター・トレック・ゲーム」をプログラミングして遊んでいたものです。
大学生時代
大学生になった時代は、ちょうど「マイクロコンピュータ」の黎明期でした。
TK-80という、歴史に刻まれるワンボードマイコンが登場したころです。
当時の価格はいくらぐらいだっただろうか?よく覚えていませんが、当時の大学生のアルバイトでも手が届かない価格でした。
さいわい、親友の”水野くん”がこのTK-80を買って持っていたので、ときどき遊びに行って触らせてもらいました。
夏の暑い日には(その当時はエアコンなんかなかった)、ワンボードマイコンは激しく過熱してしまい、ぜんぜんまともに動かなかったのを覚えています。扇風機で必死に冷却していたことを覚えています。なfつかしいですね。
同時に、私の親戚に、大学の工学部に行っている兄さんがいて、その人の家に遊びに行くと、いろんな電子機器や基板が転がっていて、それをイジってあそんでいました。
このころに登場したのが、コモドールのPET2001という一体型のコンピュータです。
外観がとてもSF的で、すばらしいマシンでした。
卒論時代
私が卒論を書いていたのは、1983年ごろです。
これはちょうど、初期のワープロが登場したころです。
当時はまだ卒論といえば、「原稿用紙に手書きで書いて提出するもの」という時代でしたが、私は、なにを思ってか、ワープロで卒論を書こうとしていました。(どうしてそう考えたのか、自分でも覚えていない)
また当然のことながら、当時のワープロも非常に高価で、自分で買える代物ではありませんでした。
なので、これまた、どこかの電気屋さんの店頭にあるワープロを「拝借」して、卒論を打ち込んでいたのを覚えています。
疑問:打ち込んだ卒論データをどう保存していたんだろう?フロッピーディスクってあったっけ? よく覚えていないなぁ。
卒業
大学では心理学を専攻し、「家庭裁判所調査官」という進路を目指していました。
この進路を発見したのが、これまた面白くて、マンガの影響です(笑)
当時のビッグコミックで「家栽の人」というマンガがありました。家庭裁判所の審判官が主人公の、ハードながらもハートウォーミングな物語でした。
「マンガの影響をすぐ受けちゃう」のが私の悪いところで、単純に家庭裁判所調査官になるべく、国家公務員試験を受けるべく猛勉強したのですが・・・
家庭裁判所調査官になるのは、法務省に入って検察官になるよりも狭き門だったのです・・
とうぜん、合格できず・・
こっちの道はあきらめることにし、ふつうのサラリーマンになることを決めて大学を卒業しました。。
入社したのは、電子工学(エレクトロニクス)とも心理学とも全然関係ない、泥くさ〜いセールスマンの仕事でした。
ここらあたりについては黒歴史なので、なにも書かないことにします。
転職
いろいろあって転職するとき、外資系の会社(1987年当時は”外資系”というのは、ものすごく珍しかった)に入社することができました。
というのも、当時の外資系企業は、「英語が得意なら誰でも入れる」という世界であって、僕は当時で英検1級レベルだったので、すんなりと入ることができたのです。
入った外資系企業は、ドイツやオランダの製版機械を輸入して販売する会社でした。
グラフィックアートの世界との出会い
この「製版」という世界とつながることができたのが、あとから考えてもとても幸運でした。
現在の「アドビが支配する世界」しか知らないみなさんには今更どう説明してもわかってもらえないと思いますが・・1987年当時の「製版」というのは、非常に泥くさい、すべてが手作業の世界でした。インクの匂いにまみれる毎日です。
1987年といえば、アップルのマッキントッシュが登場し、そしてアドビのポストスクリプトが誕生した頃で、まさに「電子製版・コンピューターグラフィック・デスクトップパブリッシング」という概念が誕生したころです。
これらの技術を、毎日の仕事をしながら身につけることができたのは、非常に幸運でした。
翻訳家としてのスキル
私の英語力が優秀だったことが、ここで重宝されます。
アメリカから送られてくる機械に付属してくる膨大な取説。それを翻訳するのが私の仕事になりました。
膨大な取説でしたが、僕の英語力ならスラスラと翻訳できたのです。
しかも、そのころにはかなり普及していたワープロ(東芝ルポとかがありました)に、取説の翻訳をバンバン打ち込んでいきます。
この「作業」のおかげで、すごいスピードで入力するというスキルが身についたのです。
インストラクターとしてのスキル
しかも、自分で読んで自分で翻訳して自分でワープロしているわけですから、機械のことは自分がいちばんよくわかっているわけです。
そういうわけで、販売した大きな機械を客先に納品したときに、お客様に使い方を説明する「インストラクター」のような仕事をすることもできました。
この「インストラクター」の仕事をしたことも幸運だった。「人にわかりやすく説明する」というスキルが身についたのです。
コンピュータ・グラフィックスとの出会い
1990年ごろ。
このあたりで、アドビのフォトショップとイラストレータが登場します。
アップルからもマッキントッシュⅡとか、マッキントッシュCXなどの商品ラインナップが広がり、じわじわとポピュラーになってきました。しかし依然として非常に高価で、個人はもちろん、大手の製版会社(大日本印刷や凸版印刷など)でもおいそれと購入できるものではなかったです。
フォトショップもイラストレータも、まだ「フロッピー3枚」というぐらいの小さなものでした。感慨深いですね。
パソコン通信との出会い
1985年から1990年ごろのあいだに、ようやく「パーソナルコンピュータ」が普及してきました。代表的なのはNECのPC-9801や、富士通のFM-7とかでしょうか。
これと連動して、「ニフティ・サーブ」というパソコン通信が始まったのです。
モデム(という機械、みなさんご存知?)を使って、電話回線につないで、ホストコンピュータ(ってわかる?)に接続し、遠くにいる人とコミュニケーションするのです。
この当時は、当然ながら「常時接続」みたいなものはなかったので、電話料金がタイヘンなものになってしまったものです。
(「テレホーダイ」が登場したのは、いつのころだろう??)
シリコン・グラフィックス社との出会い
1902年ごろ、縁あってシリコン・グラフィックス社の仕事をするようになりました。
この当時、グラフィック専用のコンピュータを作っているのはシリコングラフィックス社だけでして、ちょうど映画の世界で「ジュラシックパーク」や「ターミネータ−2」が大ヒットしていたころです。
このCG最盛期の時代に、コンピュータ技術とグラフィックアートの技術の両方を勉強できたのは、とても幸運でした。
インターネットとの出会い
ニフティ・サーブは、あくまでも「文字ベースのコミュニケーション」でしたが、そこにグラフィックベースのコミュニケーションが登場したのが、WWW(ワールド・ワイド・ウェブ)です。
ネットスケープが登場したのです。
ちなみに私、ティム・バーナーズ・リーとマーク・アンドリーセンと会って話をしたことがあります。
どういうきっかけで会ったのか全然覚えていないし、何を話したのかも全然覚えてないのですが、ちょっとミーハー的に嬉しい思い出です。
1994年
この頃、会社で私はアップルのマッキントッシュFXというのを使っていました。
このマッキントッシュFXで、ホームページの作り方を独学で勉強しました。作り方は、インターネットで探して見つけてきたのです。
ここが大事なんですが、「グーグルで検索してみつけた」わけではありません。その当時はグーグルなんかまだありませんでしたから。
代わりに、ハーバード大学とかのライブラリにアクセスして、FTPで資料(もちろん膨大な英語の資料)をゲット(ダウンロードではありません)して、必死で読み込んで習得したのです。
そうして最初に製作したのが、「インターネットカフェガイド」でした。
インターネットカフェガイド
1994年当時はまだ「インターネットって、何?」という時代でした。パソコンはまぁなんとか普及していたところですが。(NECのPC98とか、東芝のダイナブックとか。)
その当時、街の中には、インターネットカフェ(今のネットカフェやマンガ喫茶の超前身みたいなもの)が、パラパラと出現していました。一番典型的なのが、NTTの電話局です(笑)
そこで私は、そうした希少な「インターネットが体験できる場所」の一覧を紹介するホームページを作ろう、と思い立ったのです。
さらに、外国の人が日本に旅行に来たらインターネットを利用したいだろうから、日本語版と英語版の両方で作ろう、と。
さらに、旅行者向けの情報ページなんだから、成田空港から東京都心に移動する交通アクセスの情報も作ろう、と。
そんなことをコンセプトにおいて、インターネットカフェガイド-“Japan Internet Cafe Directory”という「ホームページ」を作りました。
なにしろ最初の最初ですから、HTMLを書いたのはもっぱらテキストエディターのみです。
使った技術は、
- クリッカブルマップ
- アクセスカウンター
- フレーム
そんなもんでしたっけ。。。
これをなんとか公開したところ・・・
なんと1ヶ月で100万件ものアクセスがあったのです。
で、世界中の人から「これはすばらしい」「便利だ」「日本に行くときに利用させてもらうよ」などのメールを大量にいただいたのです。
これに私はメチャクチャ感動してしまいました。インターネットの可能性と魅力のとりこになってしまったのです。
もともと私は「世界中のいろいろな人と話をする」のが、自分にとっていちばんツボにハマる性質なのです。
なのでインターネットほど、自分のツボを満足させてくれる存在はなかったのですね。
よぉ〜し、これ専門でやっていこう!これをライフワークにしよう!と決心した。
これが1995年ごろのハナシです。
ミスタードーナツのホームページ
いろいろなホームページ製作の実験をしているうち、「自分が大好きなものを熱中してつくるのがいちばんいいや」という精神が根底にあったので、最初に取り組んだのが「ミスタードーナツ大好き!」というホームページでした。
ミスタードーナツの商品一覧ーつまりメニューー、と、それぞれのドーナツの特徴、そしてお店の都道府県別一覧やマップ、などなどを網羅したホームページを作りました。
このホームページも、結構なアクセス数がありました。
そして、ダスキンさんとちょっとツテがあったので、ダスキンの人に僕のこのホームページを見せたことがあります。で、「おー、いいですねー。面白いですねー」とは言ってもらえたのですが、
「こんなもの作って、なにになるんですか?インターネット?それ、なんですか?」
みたいなこと言われたのを覚えています。
「こんなもの作って、これで売り上げが上がるんですか?え?売り上げはないんですか?ドーナツを紹介してるだけなんですか?儲からないことして、なんの意味があるんですか?」
みたいなことを言われました。。。
そうなのです。1995年当時、「インターネットでビジネスする」ということを、誰も理解してくれませんでした。大企業の人ほど、理解してくれませんでした。
「インターネット・ホームページ・ウェブサイトで通販」という考えが一般化したのは、2000年に入ってからです。それまでは、モノの販売というのは、店舗での対面か、カタログの通販、この2種類しかなかったのです。
で、私自身も、「インターネットでどうすれば金儲けできるのか?ビジネスになるのか?」という問いに答えられませんでした。
そもそも私がインターネットにハマっているのは、「外国のたくさんの人とコミュニケーションする」という無邪気な動機が根源になっているわけであり、「金儲け」というのは僕の眼中にはなかったのです。
今となっては非常にもったいないとは思うのですが、この事件があったため、ビジネスとしてインターネットに関わり、インターネットで独立起業する、という理想は自ら捨てることになりました。
この1995年当時、「インターネットで独立起業」を掲げ、その後成長し成功した人々はたくさんいます。ライブドアとかがそうでしょう。
あの当時、僕ももっと利口ならば、今ごろライブドアやホリエモンのようになっていたのかもしれません。。
オフショア開発の世界
1997年〜2000年。インターネットはあくまで趣味にとどめておこうと「撤退」した私は、しがない派遣SEの道に進みました。
ちょうど当時、「インドでオフショア開発」というのが、ITベンダー(当時は”SIer”(エスアイヤー))と呼ばれていた)がブームになっていました。
ここで問題なのは、「日本人のSEさんは英語が全然できない」という欠点です。
そのとき私は、「ほどほどにコンピュータのことがわかっていて、英語が上手だ」という能力があったので、この「オフショア開発」の世界に紛れ込むことができたのです。
で、開発現場に入って、「データベース」や「基幹システム」とかの技術を勉強することができたのです。